森ガキ侑大監督と脚本家の菅野友恵が手掛けた本作は、「そこにはないもの」に目を向けるよう私たちに問いかける。1988年から物語が始まる『架空の犬と嘘をつく猫』は、末っ子を不慮の事故で亡くした羽猫家の姿を追う。

末の弟自身が画面に登場することはないが、その不在は25年という歳月のなかで、喪失に苦しむ家族の頭上に漂い続ける。それは、この不完全ながらも深く心を揺さぶる悲しみの肖像を定義づける、多くの「欠落したもの」の一つに過ぎない。

儀式の持つ力

その不在が最も際立っているのは、羽猫家の家そのものだ。劇中には「仏壇」が一切登場しない。線香の煙も、供え物も、故人を偲ぶ静かな儀式も存在しない。日本の文化的文脈において、その欠落は耳を突き刺すほどに雄弁だ。

仏壇は単なる宗教的象徴ではない。感情が混乱しているときに指針を与え、悲嘆を処理するための健全な手段とみなされている。線香を上げ、食事を供え、故人に語りかけるといった反復的な行為を通じて、死者との繋がりを維持する方法を提供するのだ。

現代のグリーフケア心理学では、これを「継続する絆」と呼ぶ。喪失とは、死者との関係を完全に断ち切ることではなく、その関係を形作り直し、定義し直していくプロセスであるという考え方だ。それは死を否定したり、生きているふりをしたりすることではなく、彼らが今もなお「大切である」と認めることにある。

その過程は、最初は苦痛を伴うかもしれない。羽猫家がそれを避けているのは、おそらくそのためだろう。しかし、この決定的な第一歩を踏み出さない限り、彼らは長い間、癒えることができないままでいる。

逃げ場を失った悲しみは転移し、空想、沈黙、怒り、そして恨みといった不健全な形で現れる。母は息子が生きているという信念にしがみつき、父は感情的に逃避して不倫に走り、長女は激しい怒りを抱えて生きる。

家族は悲しみを処理するのではなく、その周囲を回遊しているのだ。自らが作り出した苦悩の宇宙に浮かぶ、孤独な惑星のように。

言語と制度が悲しみに追いつかないとき

映画の感情的な中心にいるのは、山吹だ。彼は妄想にふける母に対し、亡き息子の声で手紙を書き、嘘をつき続ける。それは残酷さからではない。他者が生きていくために必要だと思い込んでいる「偽りの現実」を、彼は支えているのだ。

虚偽を通じて、この青年は家族を繋ぎ止めようとしている。この文脈において、彼の行為を「嘘」と呼ぶのはどこか違和感がある。その言葉には欺瞞や操作のニュアンスが含まれるが、山吹がしているのはそのどちらでもない。彼のつき通す嘘は、たとえ迷走していたとしても、慈しみの行為なのだ。

おそらくそのラベルの貼り間違いは、より大きな問題を指し示している。悲しみに直面したとき、言語はしばしば無力だ。親や配偶者を亡くした人を指す言葉はあるが、子を亡くした親や、兄弟を亡くした兄弟を指す言葉はない。これらの経験は語彙の外側に存在する。そして、名付けることができないものは、しばしば完全に消化することが難しくなる。

山吹の「欺瞞」は、非難されることも賞賛されることもない。真実が本質的に高潔で、嘘が根本的に有害であると描かれる瞬間もない。むしろ、嘘は生き残るための切実な願いによって形作られた、一種の防衛機制として提示されている。

それは決して健全なアプローチではないが、皮肉にもそれが映画としての説得力を高めている。日本のメンタルヘルスケアの絶望的な状況を浮き彫りにしているからだ。精神疾患への偏見は今も残っているが、1980年代後半から2010年代初頭にかけては、状況はさらに劣悪だった。

羽猫家が、喉から手が出るほど必要としていた専門的な助けを一度も得られなかったのも無理はない。

© 2025 The Imaginary Dog and the Lying Cat Film Partners

進み続ける世界の残酷さ

『空想の犬、嘘つきな猫』における時間軸の跳躍は、時に物語の流れを分断するが、最終的には映画の強みとして機能している。数十年の歳月を飛び越えることで、本作は悲しみを「定義された段階を経て完結するプロセス」としてではなく、「生涯続く伴侶」として描き出している。痛みは和らぎ、遠のくことはあっても、決して完全に消え去ることはない。

そう考えると、弟の死から20年以上経って感情を爆発させる山吹の姿は、お涙頂戴の演出には見えない。むしろ誠実さに満ちている。本当の喪失とともに生きてきた人なら、誰もがこれを理解できるはずだ。

悲しみは待ち構えている。そして、ごくありふれた日常の出来事をきっかけに、予期せず表面化する。この映画は、時がすべての傷を癒やすという幻想を拒絶する。時間は、世界に対する静かな怒りを増幅させることさえあるのだ。

本作は、悲劇のために足を止めてはくれない現実の冷徹な残酷さを捉えている。子供が死んだ後も、世間はあなたが起き、シャワーを浴び、働き、税金を払うことを期待する。家族のそれぞれが、厚かましくも続いていく日常に対して異なる反応を示すが、それは決して映画的な大きなアクションではない。

羽猫家の反応は、根本的にささやかで人間的だ。だからこそ、喪失はこれほどまでに打ちひしがれるのだ。それはめったに叫び声を上げない。時間をかけて、ゆっくりとあなたを解体していくことを好む。

最終的に、この映画は死後の生の希望を垣間見せてはくれるが、癒やしを約束することはない。しかし、そこには「共感」がある。生涯続くような悲しみに対して、フィクションという表現が与えてくれる最大級の贈り物は、それなのかもしれない。


この記事は、Cezary Jan Strusiewiczによる英語の原文を翻訳・編集したものです。

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