日本初の女性首相への就任が確実視されるという歴史的な局面で、高市早苗氏が放った「ワーク・ライフ・バランスという言葉を投げ捨てる」「自民党員を馬車馬のように働かせる」という宣言は、日本社会に大きな衝撃を与えました。

多くの国民にとって、この発言は極めて矛盾したものに映りました。日本政府は数十年にわたり、過酷な労働環境が招く「過労死」という悲劇を根絶しようと奔走してきたからです。週休3日制の検討や残業時間の規制など、労働至上主義カルチャーを打破するための取り組みは、今まさに正念場を迎えています。高市氏のコメントは、こうした時代の潮流に逆行し、これまでの積み上げを台無しにしかねない危うさを孕んでいます。

しかし、視点を変えて公平に歴史を紐解けば、この問題の根深さが見えてきます。日本における「死ぬまで働く」という過酷な労働倫理は、一朝一夕に形成されたものではありません。その源流は400年以上前、江戸時代の勤勉哲学や武士道精神にまで遡ります。

別の名前で呼ばれた「過労死」

日本政府が初めて認めた「働きすぎによる死」の事例は、1969年に発生した29歳の配送部門従業員の脳卒中でした。以来、過労は日本で年間1,000件以上の心臓麻痺、脳卒中、自殺の原因として特定されています。当初、それは「過労死」ではなく、急逝死在職死亡と呼ばれていました。しかし、これらはすべて、日本文化の中で古くから知られていた問題に対する異なる呼び名にすぎませんでした。

江戸時代(1603-1867)、過労による死は一般的でしたが、興味深いことに、それは必ずしも農民の労働と結びついていたわけではありません。限界まで働いて亡くなった人々を表す当時の言葉を見ると、興味深いパターンが浮かび上がってきます。そこには、客死(旅先での死)、行倒れ(道端で倒れること)、行旅病(旅の疲れによる病)、そして急死という言葉がありました。

悲劇的ではありますが、突然死した人々を表す用語の多くは明らかに「旅」に関連しており、かつ婉曲的です。歴史的な資料には、要因として疲労に言及しているものも時折ありますが、全体的に、公式な記録では突然死の真相はかなり曖昧にされています。それには正当な理由がありました。

封建時代の参勤交代の行列では、従者たちが数百キロにわたって荷物を徒歩で運んだ | 画像:Wikimedia

徳川幕府:ブラック企業のルーツ

江戸時代の旅は厳格に管理されていましたが、同時に推奨もされていました。幕府は商人が大都市と地方の間を行き来し、商品やサービスを提供することを望んでいた一方で、その手段を徹底的に「徒歩」のみに制限していました。馬は農耕用、あるいは高官や武士のために確保されていました。そのため、江戸(現在の東京)から大阪へ向かうなら、500キロの徒歩旅行を覚悟しなければなりませんでした。これほど過酷な旅であれば、途中で倒れる人が出るのは当然のことでした。しかし、封建時代の「旅の病」の被害者は彼らだけではありませんでした。

17世紀初頭、数世紀に及ぶ内戦を経て日本を統一した将軍・徳川家康は、「参勤交代」の制度を確立しました。すべての大名は領地と江戸の間を絶えず移動し、それぞれの場所に1年ずつ滞在することを強制されました。家康は、面目を重んじる諸藩がこの毎年の移動を大規模な「行事」にすることを見抜いていました。参勤交代の行列は巨大で豪華なパレードとなり、2つの居所を維持する費用とともに、強力な武士たちに反乱を起こすための資金を残させませんでした。天才的な戦略でしたが、旅をする大名の従者たちにとっては地獄でした。

遠方の藩の大名にとって、江戸への往復は数ヶ月かかることもあり、荷運び人や様々な従者たちは主人の到着に備えて(急いで!)先回りすることが求められました。夏は日本の焼けるような湿気に耐え、冬は寒さに耐えなければなりませんでした。一部の人にとって、参勤交代制度は本質的に「重い荷物を運ぶウルトラマラソン」であり、それは常に身体を蝕みました。参勤交代を、従業員を無慈悲に酷使する現代の言葉になぞらえて「ブラック出張」と呼ぶ者さえいます。

幕府が道中での死について詳細を語りたがらなかったのも無理はありません。

苦難の中の団結

封建時代の従者たちの苦難の物語には、一つだけ希望の光があります。誰かが道端で倒れたとき、地元のコミュニティが即座に助けに飛び出したという記録が何度も見つかります。1825年に岡山で意識不明で見つかった若い巡礼者は、介抱されて回復し、駕籠で家まで送られました。同じ年に静岡で病に倒れた旅人は、地元当局にケアされ、力尽きたときには近くの寺院に埋葬されました。

封建時代の過労死は確かに恐ろしいものでしたが、それは全国的な相互扶助、思いやり、そしてコミュニティによるサポート体制を呼び起こしました。それは参勤交代の不幸な犠牲者から始まったかもしれませんが、すぐにすべての旅人に適用されるようになりました。三重県の熊野(多くの大名のルートから外れた場所)では、病気の旅人をどうケアし、遺体をどう扱うかという正式なガイドラインさえ存在していました。通常、彼らを次の宿場町まで移動できる程度に回復させ、次の宿場でも同様のことを試みる、というものでした。

もし力尽きてしまった場合は地元の寺に埋葬され、遺族が引き取りたい場合に備えて通知が送られました。これらは日本の初期の「過労死」の恐怖を軽減するものではありませんが、少なくとも、私たちは一人ではないこと、そして求めれば誰かが助けてくれるということを思い出させてくれます。

もし、仕事の悩みや心の痛みを抱えている方がいらっしゃれば、決して一人で抱え込まないでください。専門の相談員があなたの声に耳を傾けてくれます。労働条件に関する支援については、お近くの労働基準監督署にご相談ください。精神的な苦痛を感じている場合や自傷の念がある場合は、まもろうよ こころ で今すぐできる相談先を検索できます。


この記事は、Cezary Jan Strusiewiczによる英語の原文を翻訳・編集したものです。