江戸時代(1603〜1867年)、もし日本の首都に住む庶民の子に「大きくなったら何になりたい?」と尋ねたら、きっとこう返ってきたはずです。相撲取り、お役人(警察官)、あるいは火消(ひけし)。現代の子どもたちの答え(YouTuberやストリーマーという回答を除けば)と、ほとんど変わりません。ただし、江戸時代の消防のキャリアは、今とは少し趣が異なっていました。確かに、人命を救う火消たちは地域社会から多大な感謝と敬意を集めていましたが、同時にギャングのような荒々しさで恐れられ、そして何よりも、最高にクールな出で立ちで羨望の的でもあったのです。今回は、そんな「火消」たちの物語をご紹介します。

小林清親作「両国大火」(1881年)|画像提供:ロサンゼルス・カウンティ美術館
「江戸の華」を打ち消す者たち
文字通り「火を消す者」を意味する「火消」は、17世紀初頭、切実な必要性に駆られて誕生しました。1700年代半ばに江戸が人口100万人を超える世界最大の都市になる前から、この大都会の路地には庶民の家が隙間なくひしめき合っていました。それらは木造で、屋根は乾燥した茅(かや)で葺かれ、室内はさらに乾いた畳で満たされていたのです。もし当時にガソリンがあったなら、江戸の家々のあらゆる角に缶が置かれていたも同然と言えるほど、当時の街は常に危険と隣り合わせの状態でした。
当時の日本の首都では火事が非常に日常茶飯事だったため、いつしか「江戸の華」という皮肉交じりの異名で呼ばれるようになりました。そして、その華は頻繁に咲き誇り、世間には放火を専門に捜査する武士の特殊部隊(火付盗賊改方)まで組織されていたほどです。当初は、火災が発生するたびに市民や僧侶、武士などが即席の集団を結成して消火にあたっていましたが、それでは非効率であることが露呈したため、幕府は公式かつ厳格に管理された消防チーム「定火消(じょうびけし)」を創設しました。これに対抗するように、地元の職人や労働者、商人たちも独自の民間町火消を結成していったのです。そして、この町火消の男たちは、必ずしもお上のルール通りに行動するような性質ではありませんでした。
庶民からなる町火消は地元の縄張りと強く結びついており、そこでは家屋を破壊する正当な権限を与えられていました。バケツリレーが用いられることもありましたが、猛烈な炎を食い止める最善の方法は、燃える材料をなくすことでした。特別な鍵を持つ鳶口(とびぐち)と呼ばれる道具(一説には、伝説的な槍の達人の発明に影響を受けたとも言われています)を使って、屋根や壁、あるいは建物全体を引き壊し、防火帯を作ったのです。また、この道具は、別の火消グループがやってきて「自分たちの手柄」にしようと揉め事になった際にも、大いに役立ちました。

ジョージ・ウォルター・ビンセント・スミス美術館に展示されている火事兜と錣(しころ)(左)、写真「消防隊員の出初式」(右)日下部金兵衛撮影(写真美術館コレクションより)
消防士とギャングの危うい境界線
町火消は社会的には同等の身分である庶民によって構成されていましたが、内部には厳格な階層組織があり、「頭(かしら)」と呼ばれるボスを頂点に、各人の立場は日頃の評判や働きによって決定されていました。身分の低い火消たちは、男気の誇示に異常なほど執念を燃やしていました。燃え盛る建物へと突入し、炎の上がる屋根に駆け登り、いかに自分がクールであるかを証明しようとしたのです。あらゆる火災は、自らの組における階級を駆け上がる絶好のチャンスでした。
しかし、炎は火消たちが緻密に引いた縄張りの境界線などお構いなしに燃え広がります。そのため、時には2つ以上のグループが同じ火現場をめぐって激しい争いを起こすこともありました。火事が「江戸の華」であったなら、ライバル関係にある火消たちが拳や即席の武器を手に殴り合う骨のきしむ音は、さながら街のシンフォニー(交響曲)のようでした。
建前としては、火現場の傍らに自分たちの組のアイデンティティである「纏(まとい)」を最初に掲げた者が、その火事を担当する権利を得ることになっていました。しかし、先述の通り、彼らは必ずしもルールに従うわけではありません。特に、男たちの名誉や、町民から振る舞われる酒や食事のご褒美がかかっている時はなおさらです。もっとも、そうした振る舞いは必ずしも感謝の念からだけではありませんでした。江戸の人々は、単に「死を恐れない命知らずの武闘派集団」を敵に回したくない、機嫌を損ねたくないという心理も働いていたのです。
火事が収まり、宴会の後、一部の火消たちが泥酔して大騒ぎを始めても、周囲の人々はそっと距離を置き、引きつった笑みを浮かべるしかありませんでした。それは単に火消たちが暴力的だったからというだけではありません。もし彼らを怒らせてしまえば、次の火災の際、あなたの家が破壊対象として「偶然」選ばれてしまう可能性があったからです。庶民の間では、火消たちによる「みかじめ料」の要求といった噂も絶えませんでした。彼らの行動は、まるで封建時代のマフィアのようでもあったのです。

月岡芳年作「新形三十六怪撰 煙中の幽霊」(上)アムステルダム国立美術館所蔵、小林清親作「両国橋大火」(下)プリンストン大学美術館所蔵
色彩に満ちたマフィア
研究者の中には、火消から現代のヤクザへと続く直接的な系譜を指摘する人もいます。実際のところ、ヤクザの起源は博徒やテキ屋、港湾労働者など様々なグループにありますが、江戸の火消たちもそのルーツの一端を担っており、全身に刺青を入れる文化の形成に大きな影響を与えたと考えられています。
江戸時代、犯罪に対する刑罰としての刺青(入墨)は一般的でしたが、それらは決して装飾的なものではありませんでした。例えば、泥棒には腕にシンプルな線が彫られるといった具合です。しかし、火消たちが誇示していたのは、そのような類のものではありません。彼らは浮世絵などの絵画からインスピレーションを得て、自らの肉体をキャンバスに変え、歴史的な大合戦の様子や神聖な動物など、身につけた者がいかに激しい苦痛に耐えられるかを証明するような、極めて精緻なデザインを彫り込んだのです。これらの刺青は、鎮火した後に好んで披露されました。彼らは上半身、時には下着同然の姿になり、歌舞伎役者のようにドラマチックな「見得(みえ)」を切ってポーズを決めたのです。当時、火消の活躍を舞台で描くことを好んだ歌舞伎の演出からも、彼らは互いに影響を受けていたのでしょう。
自慢できるような見事な刺青を持っていない者は、その代わりに素晴らしい半纏をアピールしました。江戸の火消たちは、「火消半纏(ひけしばんてん)」として知られる独特のリバーシブルの衣装を着用していました。消火作業中はシンプルな藍色をしています。これは、藍染めの染料がある程度の防炎効果を発揮し、生地がいきなり炎上するのを防ぎ、少し焦げる程度に抑えてくれるという実用的な理由からでした。しかし、ひとたび火が消えると、彼らはその半纏を裏返しにしました。すると裏地からは、極彩色で豪華絢爛に刺繍された龍や嵐、神仏の姿が現れ、彼らの粋な姿を演出したのです。
明治時代(1868〜1912年)になると火消の組織は解体されましたが、日本の「成人の日」などの特別なイベントやお祭りで披露される竹梯子を使ったアクロバティックな「梯子乗り」といった伝統行事を通じて、彼らの記憶は現代にも脈々と受け継がれています。
この記事は、Cezary Jan Strusiewiczによる英語の原文を翻訳・編集したものです。