かつて東京には、懸命に働き、それと同じくらい激しく遊ぶ人々が溢れていた時代がありました。1970年代半ばから1980年代にかけては、アスファルトの道さえも可能性という名の漆で塗り固められているかのようでした。経済は空前の大ブームに沸き、ネオンサイン、アルコール、ラインストーン、そして幻想に彩られた夜はどこまでも果てしなく続いていました。それは、街全体が自らの持つポテンシャルに酔いしれていた時代。そして、その熱狂は――それが続く限り――しびれるほどに刺激的でした。

Flamingo Bar in Roppongi, opened 1985
狂乱と贅沢の10年
80年代のナイトクラブは、まるで東京版「ジャズ・エイジ」のようにきらめいていました。新富層たちの遊び場であり、そこではドン・ペリニヨンが水のように惜しみなく流れていました。
そのすべての原動力となったのが、バブル経済です。不動産投機の過熱、融資の緩和、そして膨れ上がる株価が、会社員や土地所有者をまたたく間に富裕層へと押し上げる、目まぐるしい狂騒の時代でした。東京・銀座の土地はマンハッタンよりも高値で取引され、銀行は脈があるものなら何にでも融資を行いました。六本木で夜を徹して遊ぶということは、この好景気が決して終わらないという幻想、美しさは金で買えるという幻想、そして欲望に代償などないという幻想を信じることと同義だったのです。

Sunday Disco at BIBA (c. 1984) | Obata Hitoshi/Hagamag
新宿ディスコの「サンデー・スクール」
ダンスフロアを埋め尽くしていたのは、大人たちだけではありませんでした。80年代初頭までには、中学生や高校生で超満員になる昼間のディスコという、一風変わった社会現象が巻き起こっていました。
新宿・歌舞伎町にそびえ立つ「第二東亜会館」は、この若者たちの中心地となりました。館内の4つのフロアにまたがり、「BIBA」をはじめとする複数のクラブが営業していました。もともとは非行少年たちの深夜のたまり場として始まりましたが、1982年に歌舞伎町のディスコで声をかけられた2名の中学生の少女が千葉県内で襲われ、1名が殺害されるという事件をきっかけに、事態は一変します。その後、深夜の夜間外出禁止令が厳格化されたことで、本格的な「昼間ディスコ」のムーブメントへと発展していったのです。1984年当時、BIBAは日曜日の正午にオープンしていました。制服姿のティーンエージャーの列が階段をぐるりと取り囲みました。ビルの中で唯一窓があったのはトイレだけだったため、まだ外が明るいことなど簡単に忘れてしまう空間でした。
このシーンからは、2人の少年がバトルを繰り広げるような振り付けの「バンプ」や、少女たちのグループダンスである「ステップ」といった独自の定番ダンスが生まれました。さらには、「Can’t Take My Eyes Off You」に合わせて踊るジェンカのコガラインまで現れたのです。
ホストクラブの台頭
重低音が響き渡る東亜会館のフロアの下では、もう一つの演劇的な夜の世界が産声を上げていました。それが「ホストクラブ」です。これはキャバレーや高級クラブの男性版であり、スマートなスーツを身にまとい、ラインストーンを輝かせ、源氏名を名乗る若い男たちが、歌舞伎町に集まる女性たちに会話と関心、そしてつかの間の幻想を売る場所でした。
ホストクラブの歴史は1960年代後半まで遡ります。しかし80年代に入ると、その数は劇的に増加し、新宿だけでも約50店舗がひしめき合うようになります。やがて、ホストたちがドリンクの売上に応じた歩合を稼ぎ、ナンバーワンの座を目指してしのぎを削る、現在のような激しい競争スタイルが確立されていきました。
クィアな東京が生き抜いた場所
歌舞伎町のきらびやかなネオンの渦からわずか数ブロック先では、また別の変革が進んでいました。1940年代後半から東京のクィア・カルチャーの中心地であり続ける「新宿二丁目」です。1956年に売春防止法が制定され、赤線地帯の再編が行われたのち、この街ではこれまでとは異なる形のナイトライフが花開き始めました。
80年代までには、二丁目にはゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの人々を迎え入れる何百ものアットホームなバーが軒を連ねていました。それぞれの空間には「暗黙のコード」があり、ブッチ、フェム、ベア、ドラァグクイーンなど、ジャンルごとに細分化され、紹介や常連客との繋がりを介してアクセスされていました。ここでのナイトライフは、反骨精神にあふれ、政治的な意味合いも帯びていました。それは単なる夜のエンターテインメント(見世物)であると同時に、彼らが自分らしく生き抜くための手段でもあったのです。

Juliana’s Tokyo (c. 1995)
六本木、そしてバブル・グラマラスの開花
その頃、六本木のナイトライフは、過剰さを洗練された芸術へと昇華させていました。「トゥーリア(Turia)」、「キング&クイーン(King & Queen)」、「エリア(Area)」といったディスコは、最先端のファッションに身を包み、外見に強いこだわりを持ち、バブル経済の恩恵による資金を潤沢に抱えた、新たなエリート層をターゲットにしていました。
中でも「トゥーリア」は、まるで宇宙船が不時着したかのようなデザインで話題を呼びました。空間デザイナーの山本コウテツ氏が手掛け、レイトンハウスが運営したこのクラブは、当時の建築的な過剰さを象徴する存在でした。しかし、その物語は悲劇的な結末を迎えます。1988年1月5日、重さ数トンにも及ぶ巨大な照明器具がダンスフロアに落下し、3名の命が奪われたのです。一部の人々にとって、この事故はディスコ時代の終焉を告げる最後のカーテンコールのように感じられました。そしてそのわずか1年後、昭和の時代が正式に幕を閉じることとなります。
「ジュリアナ東京」と時代の終焉
1991年に日本のバブル経済が崩壊し、のちに「失われた10年」と呼ばれる長期的な不況へと突入したあとも、夜の華やかさが一晩で消え去ったわけではありませんでした。市場は暴落し、地価は急降下し、企業の過剰な接待や贅沢はゆっくりと崩壊に向かっていました。しかし、東京のダンスフロアの上だけは、現実逃避のきらめきがまだ鈍く輝いていました。
まさにその年、ウォーターフロントの芝浦エリアに「ジュリアナ東京」がオープンします。そこは瞬く間に社会現象となりました。肌にぴったりと張り付くボディコンドレスをまとった「ギャル」たちが、まばゆく光る「お立ち台」の上で踊り、テクノの重低音が響き渡り、スモークを切り裂くようにストロボライトが明滅していました。会社員や大学生たちが毎夜のように押し寄せ、羽の付いた「ジュリ扇」をまるで軍旗のように振り回していました。「ジュリアナーズ、東京!」という掛け声は、これから訪れる不況に屈することを拒む世代の、幸福感に満ちた勝ち時のようでした。
わずか3年後に閉店したものの、ジュリアナ東京は今なお東京の夜の歴史において最もアイコニックなスポットの一つとして記憶されています。それは、経済崩壊の影で毅然と演じられた、昭和という時代のグラマラスな幻想の「最後の悪あがき」だったのです。そして店が閉じたとき、消えたのはダンスフロアの照明だけではありませんでした。一つの時代そのものの灯りが、静かに消えていったのです。
ジュリアナの熱狂的なレイブ・ナイトのCDが、こちらでデジタル化されて聴くことができます。激しいビート、唸るシンセサイザー、そしてあのアイコニックな掛け声を今に伝えています。
残光
今日、かつてのディスコビルの多くは姿を消しました。東亜会館は今も建物としては残っていますが、音楽はとうの昔に止まっています。ジュリアナ東京の跡地はスポーツショップを経て広告代理店になり、トゥーリアがあった場所はかつての面影もありません。かつて六本木の至宝と謳われた「ヴェルファーレ」も、2007年に解体されました。
しかし、その灯りは本当に消え去ってしまったわけではありません。
この時代のなめらかな楽観主義を体現した「シティ・ポップ」は、今や世界的な熱狂とともにリバイバルを果たしています。ネット上では当時のヴィンテージなチラシが今も巡回しています。新宿の路地裏では、ベテランのバーテンダーが今でも使い込まれたレーザーディスクをプレイヤーに差し込み、1984年から一度も絨毯を変えていないようなスナックやクラブも残っています。そして今なお、20代の若者たちがジュリアナをテーマにしたクラブイベントに列をなし、羽扇子を手に、決して死ぬことのない「ビートの亡霊」に合わせて踊っている姿を見かけることができます。
東京は忘れてなどいません。ただ、今は別の衣装を身にまとって踊り続けているだけなのです。
この記事は、Wakaba Otoによる英語の原文を翻訳・編集したものです。