1979年8月末、竹鶴政孝は肺炎の合併症により85歳でこの世を去りました。 「日本ウイスキーの父」として知られる彼は、余市において愛するスコットランド出身の妻・リタと共に眠っています。北海道のこの小さな港町は、彼が1934年に最初の蒸溜所を設立し、世界トップクラスの日本ウイスキーメーカーの一つである「ニッカウヰスキー」の礎を築いた場所でした。

竹原市にある竹鶴政孝の生家(竹鶴酒造) | 画像提供:Wikimedia
竹鶴政孝:若き日の原点
ウイスキーづくりにおける竹鶴のレガシーの原点は、広島県竹原市にある彼の生家に遡ります。造り酒屋の家に生まれた彼は、幼少期から醸造の光景、香り、そしてプロセスに囲まれて育ち、幼い頃からその科学を学びました。彼の先祖は1733年から酒造りを営んでおり、日本の伝統的な酒造りとの深いつながりが、後に彼のウイスキーへのアプローチを形作ることになります。
元気で腕わんぱくな少年として知られていた竹鶴は、8歳の時に階段から激しく転落し、鼻を永久に傷つけ、大きく腫れ上がらせてしまいました。自伝『ウイスキーと私』の中で、彼は「他の人が感じ取れない匂いを嗅ぎ分けることができるようになり」、後に酒類の香りを誰よりも鋭く見分けられるようになったと語っています。
醸造に対する彼の生来の好奇心は、やがて大阪高等工業学校での醸造学の学びへと繋がり、家業の酒造りの枠を遥かに超えた道へと進むことになります。1916年、彼は摂津酒造に入社し、洋酒の模造品を製造する高い技術を持った技術リーダーとして活躍しました。しかし、同社は日本で初めて「本物」のウイスキーを醸造することを切望していました。

1920年代頃に撮影された竹鶴と妻リタの肖像画 | 画像提供:Wikimedia
スコットランドとリタとの出会い
摂津酒造に入社してわずか2年後の22歳の時、竹鶴はスコッチの企業秘密を本場で学ぶためスコットランドへと渡海しました。彼はグラスゴー大学に入学した後、ロングモーン、ボーネス、ヘーゼルバーンの各蒸溜所で実地研修を受けるために休学しました。そこで彼は、日本に持ち帰り、国内のウイスキー産業の礎を築くことになる技術を学んだのです。
スコットランド滞在中、竹鶴は生涯のパートナーとなる女性に出会います。グラスゴー近郊のキルカンティロッフ出身のジェシー・ロベルタ・カウン(愛称「リタ」)は、弟に柔道を教えてほしいと竹鶴を実家に招いた彼女の妹を通じて紹介されました。2人は文学や音楽という共通の趣味を通じてすぐに打ち解け、双方の家族からの反対にもかかわらず、1920年に結婚しました。
2人はその年の後半に日本へ帰国しました。しかし、竹鶴の家族はリタを家に受け入れることを拒みました。また、当初は日本語が話せず、食事や習慣の違いに苦しんだリタでしたが、徐々に言葉を覚え、英語を教える仕事を見つけました。リタは後にこう回想しています。「寂しいことも多かったけれど、政孝を支え、ここに家庭を築こうと心に決めていました。毎日が挑戦でしたが、それは2人で歩む道だったのです」。

大阪府山崎にあるサントリー山崎蒸溜所 | 画像提供:Wikimedia
山崎とニッカへの道のり
日本に到着した竹鶴が持ち帰ったのは、新しき妻だけではありませんでした。彼は「竹鶴ノート」に書き留めた、スコットランドで学んだ手法を用いてウイスキーを作るという知識と野望をも携えていました。しかしあいにく、その頃には摂津酒造は第一次世界大戦後の深刻な不況のため、日本初の本格的なスコッチスタイルのウイスキー蒸溜所を建設する計画を断念していました。
竹鶴はその後、1922年に同社を退職し、一時的に高校の化学教師として働きました。その後、寿屋(後のサントリー)の野心的な創業者である鳥井信治郎に雇われ、日本初の商業用ウイスキー蒸溜所である山崎蒸溜所の建設に着手しました。1929年、寿屋は竹鶴の指揮のもと製造された日本初の本格国産ウイスキー「サントリー白札」を発売しました。しかし、多くの消費者にとってその力強い味わいが刺激的すぎたため、売れ行きは芳しくありませんでした。
「白札」に対する厳しい反応は、根本的な課題を浮き彫りにしました。竹鶴がスコットランドで学んだ製法は、必ずしも当時の日本の消費者が求めていた味わいではなかったのです。鳥井がより軽やかで飲みやすい味わいへと舵を切り始めたのに対し、竹鶴はスコットランドの伝統に則ったウイスキーづくりにこだわり続けました。このアプローチの違いから、竹鶴は1934年に寿屋を去り、北海道で自らのビジョンを追求することになります。

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の正門 | 画像提供:Wikimedia
余市とニッカの誕生
竹鶴が日本最北の地(北海道)を選んだのは、冷涼な気候、清らかな水、そしてスコットランドを思わせる風土があったからです。投資家グループからの資金援助を受けて、彼は1934年に大日本果汁株式会社を設立し、人里離れた余市の地に蒸溜所を建設しました。この会社が後に「ニッカウヰスキー」として知られるようになり、竹鶴はついにスコットランドで学んだ原則に従ってウイスキーを作る自由を手に入れたのです。
しかし、ウイスキーは販売できるようになるまでに何年もの熟成期間を要します。それまでの間、会社は資金繰りを維持するために、リンゴを使った製品、特にジュースの製造販売を行いました。余市産の高級リンゴから作られたこの製品は、一般消費者には高価すぎました。また、長時間の輸送中にペクチンが凝固して生じる不透明な濁りも不評で、ラムネやサイダーといった人気ドリンクとの競争に苦戦しました。
会社は赤字が続いたものの何とか事業を存続させ、1936年にウイスキーの蒸留を開始しました。特徴的なダイヤ柄のボトルで飾られた最初の「ニッカウヰスキー」は、1940年6月に発売されました。そのわずか2ヶ月後、政府が新設した級別制度において最上級の「1級ウイスキー」の指定を正式に獲得し、全国でわずか3ブランドしか選ばれなかったエリートの仲間入りを果たしました。

ニッカの「レアオールド」ウイスキーのボトル(1950年頃)
戦争、困窮、そして生存
ニッカの初期の成功は、日本のウイスキー産業にとって大きな転換期に訪れました。戦争によって輸入が途絶えると、スコッチウイスキーの入手が益々困難になり、日本の製造業者が市場シェアを伸ばすことになったのです。余市蒸溜所は大日本帝国海軍の管轄工場に指定されたため、ニッカは戦時中もウイスキーの製造を継続し、国産洋酒の需要の高まりに応えることができました。
終戦は新たな試練をもたらしました。荒廃した日本経済の中で、消費者には贅沢品にお金を払う余裕がほとんど残されていなかったのです。しかしウイスキーへの需要自体は強く、安価な粗悪模造ウイスキーが市場に溢れかえりました。竹鶴はこれに対し、ライバルメーカー製品の品質向上のため、自身の本物のモルトウイスキーを少量ずつ分け与えて売ることで対応しました。またニッカ自身も、法定上限である5%の本物ウイスキーを混和した「3級ウイスキー」を売り出しました。
「3級ウイスキーを作ることは、ブレンダーとしての私の良心に反することだったが、背に腹は代えられなかった」と竹鶴は語っています。彼は完成した「スペシャルブレンデッドウイスキー角瓶」に誇りを持つことはできませんでしたが、当時出回っていた模造品とは一線を画す本物の味わいを保っていました。その手頃な価格設定は、資金に余裕のない消費者の間で評判となり、終戦直後の困難な時期に会社を支える糧となったのです。

竹鶴政孝とリタ | 画像提供:EDLC Archives & Local Studies (1935年頃)
共に築き上げた至高のレガシー
しかし、ニッカの生存は決して一人だけの功績ではありませんでした。リタは会社の最も困難な時期も常に竹鶴の傍らに立ち、日本にウイスキー産業を築くという彼のビジョンを支え続けました。「彼女は心の支えとなっただけでなく、経営が苦しい時には資金面でも助けとなりました」と、ニッカウヰスキーの国際事業部マネージャーである楫恵美子氏は語っています。「彼女は日本の文化に適応し、世界大戦の間でさえ彼のそばに留まるために、あらゆる努力を重ねたのです」。
竹鶴リタは、長年の肝臓病と結核との闘病の末、1961年に64歳で亡くなりました。彼女の死に竹鶴は深く打ちのめされました。彼は2日間にわたって部屋に閉じこもり、あまりの悲しみから火葬にも立ち会うことができなかったと伝えられています。彼女の面影を称えるため、彼はその悲しみを新たなブレンディングの完成へと注ぎ込み、1962年にリタへのオマージュとして名作「スーパーニッカ」を発売しました。
スーパーニッカの誕生は会社にとって新たな章の幕開けとなり、日本のウイスキーを日常の庶民の酒から高級品へと押し上げるきっかけとなりました。その評判が高まるにつれて会社も大きく成長。竹鶴のリーダーシップのもと、ニッカは日本を代表するウイスキーメーカーへと花開いたのです。彼の情熱と影響力は、そして彼の夢を可能にしたリタの揺るぎない献身は、今日の日本ウイスキーの中に脈々と生き続けています。
この記事は、Matthew Hernonによる英語の原文を翻訳・編集したものです。