これまでに、風味豊かで歯ごたえのある本物の「蕎麦」を期待して「中華そば」を注文し、戸惑った外国人旅行者は少なくないはずです。名前にしっかりと「そば」という言葉が入っているのですから無理もありません。目の前に運ばれてきたのが、旨味の詰まったスープにトッピングが乗った小麦の麺(そう、まさに私たちがラーメンと呼ぶもの)だったときの彼らの驚きを想像してみてください。

それもそのはず、「中華そば」は世界的に有名な日本の国民食である「ラーメン」の同義語だからです。どちらもスープに浸かった麺料理であり、ラーメンのルーツが中国にあることを考えれば、その繋がりは理解できなくもありません。しかし、だからといって日本で売られているスパゲッティが「イタリアそば」と宣伝されることはありません。では、なぜラーメンにおいてだけこのような現象が起きているのでしょうか。その理由を紐解いていきましょう。

chuka soba the history of ramen in japan

朱舜水(左)と徳川光圀(右)、そして15世紀の「経帯麺」を再現したもの。写真提供:新横浜ラーメン博物館

二つの起源説

日本におけるラーメンの起源を巡っては、二つの対立する説が存在します。一つは、京都の相国寺の塔頭である鹿王院の境内、蔭涼軒(いんりょうけん)で振る舞われていた「経帯麺」に遡るという説です。「経典の帯のように切られた麺」を意味するこの小麦の料理は、古くは1488年の日本で食べられていた記録があり、かんすいが使われていたことから、現代のラーメンの先祖として言及されることがあります。

もう一つの説は、17世紀半ばから後半にかけて、水戸藩主である徳川光圀が、明の遺臣である朱舜水からアドバイスを受け、うどんにニンニク、生姜、ネギといった中国風の薬味を加えたというものです。

しかし、日本の食文化史の研究者たちは、経帯麺もこのアレンジうどんも、真のラーメンの先祖としては否定しています。これらは単に「日本に古くから麺類が存在していた」という証拠に過ぎないと考えられているからです。さらに言えば、二つ目の物語には少し問題があります。なぜなら、ラーメンに対する中国の影響を認めつつも、それを最初から「根本的には日本独自のもの」として枠付けようとする意図が見え隠れするからです。これは、後にラーメンのアイデンティティを国体化するために作られた創作である可能性が高く、実際に検証可能なラーメンの歴史の変遷とは矛盾しています。

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横浜中華街の料理人を雇い、1910年代に浅草で創業した日本初の「支那そば」専門店「来々軒」。画像:新横浜ラーメン博物館所蔵

中国の麺がいかにして日本に伝わったか

ラーメンの真の歴史は、かつて横浜に「ブラッド・タウン(Blood Town)」と呼ばれた荒々しい外国人居留地があった時代に始まります。1859年、小さな漁村だった横浜が巨大な国際貿易港へと変貌を遂げると、多くの中国人が移住し、日本に「拉麺」をもたらしました。中国北部を発祥とするこの料理は、手で引き延ばした小麦の麺をあっさりとしたスープに入れ、ネギを添えたもので、今も現地で親しまれています。

これは現代のラーメンにかなり近いものでしたが、醤油による味付けや、より工夫されたトッピングといった要素はまだ欠けていました。それでも、「ラーミェン」と「ラーメン」の言語的な繋がりは明白です。一方で、チャーシューを乗せた広東風の「撈麺(ローミン)」がラーメンの祖先であるとする説も存在します。

この当時は、麺類の純粋な中国の伝統を隠そうとする試みはなく、料理は「南京そば」として売られていました。この名称は、外国からもたらされた料理のエキゾチックな魅力をむしろ強調し、労働者たちの手軽で塩気が強く、安くてお腹を満たせる食事という位置づけから、少し格を上げようとする試みでもありました。ここで使われた「そば」という言葉は、日本の消費者がすでに持っている食の語彙を用いて、その料理がどのようなものであるかを素早く説明するための、単なる比喩に過ぎませんでした。

しかし、これでもまだ現代のラーメンの完成形ではありませんでした。

東京における「支那そば」の誕生

現代につながるラーメンが実質的に誕生したのは、1910年に東京・浅草に開業した「来々軒」であると言われています。ここでは、横浜の中華街から雇われた料理人たちによって、南京そばが日本人の好みに合わせてアレンジされました。醤油のタレ、チャーシュー、茹でたほうれん草、鳴門巻き、海苔など、多彩な具材が加えられたことで、この小麦麺料理は、ついに私たちが知る「ラーメン」としての形を成したのです。

しかし当時、それは「ラーメン」とは呼ばれず、当時の日本における中国の呼称を用いて「支那そば」と呼ばれました。この言葉の裏には、深い政治的背景が含まれていました。料理そのものの変化はわずかでしたが、それを取り巻く空気感は劇的に変わったのです。もはやそれは単に「日本に持ち込まれた中国の料理」ではなく、日本によって「飼い慣らされた」中国料理というニュアンスを帯びていました。

「南京そば」の名が使われた最も古い記録(明治17年/1884年頃、新横浜ラーメン博物館所蔵)と、現代一般的に提供されているラーメンの一杯

ラーメンと中華そば:人道的な妥協から生まれた名称

第二次世界大戦後の混迷期、日本政府の最高レベルでの方針転換に伴い、「支那」という言葉の使用は廃止され、その動きは街のラーメン店にも広がっていきました。「支那そば」は「中華そば」へと改称され、植民地支配や地政学的な抑圧を想起させる言葉から、中華文化の「華やかさ」を想起させる言葉へと移行したのです。しかし、それでもなお、この名称が繊細な摩擦を生む場面がありました。そこで、ある時期に誰からともなく、「ラミェン」や「ローミン」の音にちなんで「ラーメン」という呼称を使おうという提案がなされました。

「ラーメン」という言葉自体は戦前から存在していましたが、戦後に広く普及した背景には、当時もなお麺作りの現場の主軸であった中国系の人々を、言葉による不当な差別や偏見から守るための、人道的な配慮と政治的な妥協の意味が深く込められていたのです。

それ以来、ラーメンは多大な進化を遂げてきました。横浜発祥の「家系ラーメン」(濃厚な豚骨醤油スープに太麺を合わせ、鶏油を浮かべたもの)に代表される近年の多様なイノベーションは、間違いなく日本独自の文化と言えます。しかし、それらはすべて、中国の偉大な遺産から出発した料理であるという事実は否定できませんし、その歴史を鑑みれば、否定すべきでもありません。そう考えると、「中華そば」という呼び名は、一部の外国人を混乱させることはあっても、この日本の国民食が真にどこからやってきたのかをオープンに認める、極めて敬意に満ちた言葉の選択であると言えるのではないでしょうか。


この記事は、 Cezary Jan Strusiewiczによる英語の原文を翻訳・編集したものです。